私が大学生になった頃なので昭和43,4年ごろだったはずですが、テレビで“キックボクシング”と題されたスポーツ番組が夜の7時から30分間のゴールデンアワーで放映が始まりました。日本テレビかTBSだったかはもう覚えていません。解説は僧侶で作家の寺内大吉氏、ベレー帽を被った穏やかな風坊の人でした。
ローキックをぺシャリとだす日本人選手に対して、バスン・バスンと速いハイキックを連打で繰りだすタイ人選手では勝負にならず、一方的なKOで2試合が終わると、会場から湧き上がる拍手で迎えられて、浅黒い筋肉質の精悍な日本人選手が登場した。試合が始まると日本人選手とは思えないタイ人選手にも負けない速さで重いハイキックをドスン・ドスンと繰り出し、最後は空中高く飛び上がって膝蹴りで相手のタイ人選手を仕留めました。アナウンサーは「出ました、沢村選手の真空とび膝蹴り」と興奮気味で叫んでいたのが強く印象に残り、それ以降は毎週そのキックボクシングを観戦するのが三度の飯よりも楽しみになったのです。会場となった後楽園ホールはいつ見ても超満員、放送が始まって直ぐに高い人気番組となりました。
沢村選手は毎週違うタイ人選手と対戦し、激しいハイキックの応酬を繰り返し、最後は伝家の宝刀の「真空飛び膝蹴り」で相手をマットに沈めるのです。他の日本人選手が皆同様にかるいローキックをだすのがやっとなのに、沢村選手だけがタイ人選手に負けないハイキックを繰り出し、力道山以来の正に格闘技の英雄となりました。
当時タイから招聘されて沢村選手と好勝負を繰り広げたタイ人選手は、バイヨク・ボーコーソ、シンノイシ・ルークパンチャマそしてポンニット・キットヨーテンなどのルンピニ・スタジアムの、(解説者に依れば)上位ランカー達。年老いて記憶力が極端に乏しくなっている私の記憶に未だに残っているこれらの名前は、私が当時どれだけキックボクシング、そして沢村選手に夢中だったかの証です。
そのうちに日本人選手たちも技術が上達してきて、ミドルキックやハイキックも出せるようになり、更にジムの数が増えて選手層も厚くなってからは日本人同士の試合が組めるようになり、日本ランキング、更には東洋ランキングまで設定されるようになったのです。当時活躍した沢村選手以外の日本人選手では、アイヌ出身の片目ボクサー、カムイ・カワナノ、ミドル級のアニマル富山(後に富山勝治),日本拳法から転向したヘビー級の斉藤天心などの名前を覚えています。
タイ式ボクシングを”キックボクシング”と名づけて、沢村忠(本名はもっと劇的な白羽秀樹)選手を見出してヒーローとしてデビューさせ、日本にキックボクシングのブームを巻き起こしたのは辣腕な目黒ジムの野口修会長でした。
倉部誠
1950年、千葉県出身。合気柔術逆手道代表師範。著書に「力を超えた!合気術を学ぶ」、「合気速習」、「できる!合気術」(BABジャパン刊)がある。