キックボクシングの曙観戦録 ② 文・倉部誠

キックボクシングの曙観戦録 ② 文・倉部誠
全国的にキックボクシングの人気が上がると、日本テレビだけに独占させるのは面白くない他局でも独自の系列を作って放映が始まりました。
確か10チャンネルと12チャンネルでしたが、10チャンネルのほうは極真空手の黒崎師範が起こした目白ジムを主体とする系列で、黒崎師範が育てた藤原敏男選手や大沢昇選手らが、タイ人選手を相手に地味ですが堅実な試合を積み上げて力を付けて行きました。一歩の12チャンネルの方は、嘗てのグループサウンズで活躍した安岡力也などが登場し、まるでリングでの喧嘩のような低レベルの試合しか見せられずに、人気も上がらずに放映終了となりました。以降は目黒ジム系列と目白ジム系列が、日本ランキングと全日本ランキングを並列させる状況が長く続くことになります。
両系列共に日本人選手同士の試合も数多く組まれるようになりますが、何故か沢村選手だけは特別扱いで日本人相手の試合が組まれないまま、東洋ライト級チャンピオンのタイトルを維持します。沢村選手の試合を見ると直ぐにわかるのは、重くて速いハイキックに較べてパンチがまるで素人なのです。特にストレートは威力がない手打ち、しばらくして漸くフックがボクサーらしくなりましたが、ストレートの素人打ちは最後まで直りませんでした。もうひとつ不思議なことは、沢村選手の対戦相手は当初からルンピにスタジアムの“上位ランカー”ばかりで、皆KOで沈めます。解説の寺内大吉氏は「愈々沢村選手はキックの本場、ルンピニ・スタジアムでランキング入りします」などと発表するものの、実現されたとの知らせはとうとう聞きませんでした。
「沢村は本当に強いのか」という周囲の声に押される形で漸く日本人選手との対戦が組まれました。相手が「ロッキー藤丸」と言うトリッキーな動きをする選手で、この試合で沢村は“貫録勝ち”しますが、それ以降は二度と日本人選手相手の試合は実現しませんでした。
一方の目白ジム系列では、藤原選手や大沢選手が対戦するタイ人選手たちは、タイではルンピニと並ぶ名門のラジャダムナン・ジムから派遣された人たちで、最初は低ランキングの選手達ばかりでしたが、対戦者のランキングが徐々に上がって行きます。日本系列と全日本系列での交流試合が組まれるようになり、この藤原選手と沢村選手とを戦わせたいと言う声が高まり、藤原選手のほうは対戦を希望するのですが目黒ジムの野口会長は最後まで対戦を拒み続けました。
そのうちに藤原選手は本場のタイのラジャダムナン・ジムで戦って、何と日本人で初のチャンピオンとなります。正に偉業とも言える業績です。大沢選手もタイでの試合で聴衆をひきつける大活躍をしました。二人が、“創られた虚像”ではなく地道に階段を上り詰めた真の実力者達である事を誰もが認めた瞬間でした。
倉部誠
1950年、千葉県出身。合気柔術逆手道代表師範。著書に「力を超えた!合気術を学ぶ」、「合気速習」、「できる!合気術」(BABジャパン刊)がある。

「沖縄空手演武会 千葉&京都 2023年7月」のお知らせ

「沖縄空手演武会 千葉&京都」のお知らせ

開催日:7月16日(日)12:10~ 14:40~
    7月17日(月祝)11:40~ 13:40~
場所:イオンモール幕張新都心 グランドスクエアステージ
演武者:東黒島美香(小林流)
    八木明人(剛柔流)
    上地完尚(上地流)
    又吉郁弥(古武術)
開催日:7月22日(土)・7月23日(日)
場所:イオンモール京都桂川
演武者:比嘉康雄(小林流)
    都澤隆幸(剛柔流)
    上地完司(上地流)
    アンドレア・クレメンティソバー(古武術)
【内容】
・ステージ1日2回開催
・パネル展示や武具紹介等
・VR体験
・フォト体験
・瓦割体験
・アンケート(トートバッグプレゼント)

キックボクシングの曙観戦録 ① 文・倉部誠

キックボクシングの曙観戦録 ①  文・倉部誠
私が大学生になった頃なので昭和43,4年ごろだったはずですが、テレビで“キックボクシング”と題されたスポーツ番組が夜の7時から30分間のゴールデンアワーで放映が始まりました。日本テレビかTBSだったかはもう覚えていません。解説は僧侶で作家の寺内大吉氏、ベレー帽を被った穏やかな風坊の人でした。
ローキックをぺシャリとだす日本人選手に対して、バスン・バスンと速いハイキックを連打で繰りだすタイ人選手では勝負にならず、一方的なKOで2試合が終わると、会場から湧き上がる拍手で迎えられて、浅黒い筋肉質の精悍な日本人選手が登場した。試合が始まると日本人選手とは思えないタイ人選手にも負けない速さで重いハイキックをドスン・ドスンと繰り出し、最後は空中高く飛び上がって膝蹴りで相手のタイ人選手を仕留めました。アナウンサーは「出ました、沢村選手の真空とび膝蹴り」と興奮気味で叫んでいたのが強く印象に残り、それ以降は毎週そのキックボクシングを観戦するのが三度の飯よりも楽しみになったのです。会場となった後楽園ホールはいつ見ても超満員、放送が始まって直ぐに高い人気番組となりました。
沢村選手は毎週違うタイ人選手と対戦し、激しいハイキックの応酬を繰り返し、最後は伝家の宝刀の「真空飛び膝蹴り」で相手をマットに沈めるのです。他の日本人選手が皆同様にかるいローキックをだすのがやっとなのに、沢村選手だけがタイ人選手に負けないハイキックを繰り出し、力道山以来の正に格闘技の英雄となりました。
当時タイから招聘されて沢村選手と好勝負を繰り広げたタイ人選手は、バイヨク・ボーコーソ、シンノイシ・ルークパンチャマそしてポンニット・キットヨーテンなどのルンピニ・スタジアムの、(解説者に依れば)上位ランカー達。年老いて記憶力が極端に乏しくなっている私の記憶に未だに残っているこれらの名前は、私が当時どれだけキックボクシング、そして沢村選手に夢中だったかの証です。
そのうちに日本人選手たちも技術が上達してきて、ミドルキックやハイキックも出せるようになり、更にジムの数が増えて選手層も厚くなってからは日本人同士の試合が組めるようになり、日本ランキング、更には東洋ランキングまで設定されるようになったのです。当時活躍した沢村選手以外の日本人選手では、アイヌ出身の片目ボクサー、カムイ・カワナノ、ミドル級のアニマル富山(後に富山勝治),日本拳法から転向したヘビー級の斉藤天心などの名前を覚えています。
タイ式ボクシングを”キックボクシング”と名づけて、沢村忠(本名はもっと劇的な白羽秀樹)選手を見出してヒーローとしてデビューさせ、日本にキックボクシングのブームを巻き起こしたのは辣腕な目黒ジムの野口修会長でした。
倉部誠
1950年、千葉県出身。合気柔術逆手道代表師範。著書に「力を超えた!合気術を学ぶ」、「合気速習」、「できる!合気術」(BABジャパン刊)がある。