キックボクシングの曙観戦録③ 文・倉部誠

キックボクシングの曙観戦録 ③ 文・倉部誠
創られた虚像はいつの間にかキック界から去り、その後週刊誌に暴力団の恐喝現場に同席したことが知られて「暴力団の用心棒になった」などと書かれたこともありましたが、いつの間にか忘れ去られました。晩年は町工場を経営しながら地元の少年達にキックボクシングの指導をして暮らしていたとのことです。一昨年の2021年3月に肺がんで78歳でなくなったと読売新聞に記載されているのを読みました。合掌
沢村選手が本当に強かったのかという事はともかくとして、彼のスーパースターとしての存在が日本のキックボクシングのブームを捲き起こしたという大きな業績は賞賛されるべきでしょう。
なお、“沢村選手が本当に強かったのか”という疑問に関しては以下の記事を御参照下さい。
“真空飛び膝蹴り”沢村忠はリアルに弱かったのか? 全241戦「フェイク試合だった」疑惑を検証する – 空手 – Number Web – ナンバー (bunshun.jp)
さて次ぎの大きなイベントは藤原選手と大沢選手という日本のキックボクシングの2大スターがキックに転向したボクシング選手と行ったダブル試合でした。藤原選手と対戦したのは元WBA世界フェザー級チャンピオンのシンデレラ・ボーイこと西城正三選手、大沢選手と対戦したのは本東洋チャンピオンだった某選手。第一試合で大沢選手は文句の無いKO勝ち。第二試合では藤原先週は終始優勢で試合を進め、ノックダウンをとる寸前まで行ったが西城選手のセコンドがタオルを投げて後味の悪い放棄試合で終わったのです。私もその試合をテレビで観戦しましたが、劣勢になっただけでまだはっきりと負けてはいないのにタオルを投げて試合終了させた西城側に、聴衆は完全に怒っていたのが強く印象に残っています。
私がキックを見ていた最後に印象に残ったのは米国のベニー・ユキーデ選手です。運動神経が抜群で動きが早く、相手のパンチやキックを紙一重でかわして素早く反撃する。対戦する日本選手がことごとくマットに沈められていました。このユキーデ選手と藤原選手が戦ったらどちらが勝つか、とても興味が湧きましたが残念ながらその対戦は実現しないで終わってしまいました。
以降、私は日本を離れてオランダへ27年間移住することになり、キックボクシングは見られなくなったので、私のキックボクシング観戦録はこれにて終了です。
倉部誠
1950年、千葉県出身。合気柔術逆手道代表師範。著書に「力を超えた!合気術を学ぶ」、「合気速習」、「できる!合気術」(BABジャパン刊)がある。

キックボクシングの曙観戦録 ② 文・倉部誠

キックボクシングの曙観戦録 ② 文・倉部誠
全国的にキックボクシングの人気が上がると、日本テレビだけに独占させるのは面白くない他局でも独自の系列を作って放映が始まりました。
確か10チャンネルと12チャンネルでしたが、10チャンネルのほうは極真空手の黒崎師範が起こした目白ジムを主体とする系列で、黒崎師範が育てた藤原敏男選手や大沢昇選手らが、タイ人選手を相手に地味ですが堅実な試合を積み上げて力を付けて行きました。一歩の12チャンネルの方は、嘗てのグループサウンズで活躍した安岡力也などが登場し、まるでリングでの喧嘩のような低レベルの試合しか見せられずに、人気も上がらずに放映終了となりました。以降は目黒ジム系列と目白ジム系列が、日本ランキングと全日本ランキングを並列させる状況が長く続くことになります。
両系列共に日本人選手同士の試合も数多く組まれるようになりますが、何故か沢村選手だけは特別扱いで日本人相手の試合が組まれないまま、東洋ライト級チャンピオンのタイトルを維持します。沢村選手の試合を見ると直ぐにわかるのは、重くて速いハイキックに較べてパンチがまるで素人なのです。特にストレートは威力がない手打ち、しばらくして漸くフックがボクサーらしくなりましたが、ストレートの素人打ちは最後まで直りませんでした。もうひとつ不思議なことは、沢村選手の対戦相手は当初からルンピにスタジアムの“上位ランカー”ばかりで、皆KOで沈めます。解説の寺内大吉氏は「愈々沢村選手はキックの本場、ルンピニ・スタジアムでランキング入りします」などと発表するものの、実現されたとの知らせはとうとう聞きませんでした。
「沢村は本当に強いのか」という周囲の声に押される形で漸く日本人選手との対戦が組まれました。相手が「ロッキー藤丸」と言うトリッキーな動きをする選手で、この試合で沢村は“貫録勝ち”しますが、それ以降は二度と日本人選手相手の試合は実現しませんでした。
一方の目白ジム系列では、藤原選手や大沢選手が対戦するタイ人選手たちは、タイではルンピニと並ぶ名門のラジャダムナン・ジムから派遣された人たちで、最初は低ランキングの選手達ばかりでしたが、対戦者のランキングが徐々に上がって行きます。日本系列と全日本系列での交流試合が組まれるようになり、この藤原選手と沢村選手とを戦わせたいと言う声が高まり、藤原選手のほうは対戦を希望するのですが目黒ジムの野口会長は最後まで対戦を拒み続けました。
そのうちに藤原選手は本場のタイのラジャダムナン・ジムで戦って、何と日本人で初のチャンピオンとなります。正に偉業とも言える業績です。大沢選手もタイでの試合で聴衆をひきつける大活躍をしました。二人が、“創られた虚像”ではなく地道に階段を上り詰めた真の実力者達である事を誰もが認めた瞬間でした。
倉部誠
1950年、千葉県出身。合気柔術逆手道代表師範。著書に「力を超えた!合気術を学ぶ」、「合気速習」、「できる!合気術」(BABジャパン刊)がある。